塩谷喜雄

Shioya2福島第一原発事故は、まだ収束も冷温停止もしていない。

福島第一原発事故をめぐっては、政府、国会、民間の事故調査委員会の報告に加え、「第一容疑者」が事件を捜査してみせるという奇怪な東電の事故調報告も含めて4つもの調査報告が公表された。だが、事故原因の核心はほとんど解明されていない。「予想を超える大津波が来て、全電源を失い、炉心の核燃料を冷却できず、炉心は融解落下し、原子炉は次々水素爆発を起こした」というのは、過酷事故を招いた当事者たちが責任逃れのために都合よくつくりあげた「筋書き」でしかない。4基の同時多発事故は、それぞれ独立に起きたのか、連鎖なのか。東電の初期対応は適切で、間違いや手抜かり、ミスはなかったのか。事故を拡大させた原因はどこにあるのか。メディア受けのするエピソード集めではなく、事故の推移、シークエンスを客観的に解き明かし、事の本質を公にするのが「事故調」の仕事のはずが、民間事故調にしても、東電の協力が得られなかったとして、「福島第一の11日間」ではなく「官邸の11日間」を取り上げるほかなかった。他の事故調に比べて格段に強い権限を持ち、当時の閣僚への公開聴取がメディアの注目を集めた国会事故調にしても、半ば「政治ショー」と化し、肝心なところでは要員退避計画の存在を否定する東電の「筋書き」にまんまと乗せられてしまった。事故調の中で事故解明のまっとうな意欲が最も感じられたのは政府事故調だが、「第一容疑者」である東電が、あらゆる記録データと物的証拠を、事故発生以来一貫して一手に管理し続けている状況では、解明にはおのずと限界が生じた。4つの事故調報告は、それぞれどこが違うのか? 違いはどこから生じたのか? それぞれの事故調査報告書のポイントを整理し、設立事情にまで遡って、その主張と問題点を読み比べる。

3 thoughts on “塩谷喜雄

  1. shinichi Post author

    『「原発事故報告書」の真実とウソ』 を読みながら、考えたことがある。それは、もし私がそこで働いていたら、その立場にあったら、そこに居合わせたら、そのレポートを書けと言われたら、どうしていただろうということだ。実は、最初から最後までそんなことばかり考えて読んでいた。

    私が関西電力に勤めていて、たまたま大飯3、4号機のストレステストを担当していて、保安院が想定プラス9.5メートルという通達を出してきて、上司がその通達に合うような報告をするようにと言ってきた時、どうするだろう。。。。とか。。。きっと、つじつまを合わせてしまうんだろうなあという、自己嫌悪。。。ですが。

    私が東京電力のICのオペレータで、たまたま転勤でそこに回されたので仕方なく勤務していて、事故なんて起きるわけないからマニュアルなんかどこにあるのかもわかってなくて、そんな時に事故が起きて、ワーどうしようとなって、そのあとでどう言い訳けしただろう。。。とか。。。。マニュアルを読んでなかった私が悪いんだけど、でも、あの時、手動で止めたのは、正解なんじゃないかなあ、という担当者としての気分も含めてだけれど。。。 ;)

    最近、オタクの人たちのあいだでは、「チェルノブイリから5年でソ連崩壊 日本は?」のようなのが流行っているようだし、シェワルナゼは「チェルノブイリの事故はソ連崩壊の直接の原因ではなかったが、一つの要因ではあった」なんて言っているけれど、私はまったく逆のことを考えている。チェルノブイリや福島は原因ではなくて結果なのだという考えだ。

    その考えを裏付けるかのように、この本を読んで、当時のソ連と今の日本の共通点が3つほど浮かんできた。

    1) システム化とサステナビリティの欠如
    システム化の本質(リスクの理解とメインテナンスの重要性)を理解しないマネージャーが予算を作れば、リスク回避やメインテナンスの予算が少なくなり、専門家の量と質が低下するのは当然のこと。その結果、化学プラントは爆発し、トンネルの天井は落下する。

    2) 組織化と個人の責任の消滅
    「私」と言ってはいけない組織の中では、個人の名前が出てくることはなく、成功は全員の手柄、失敗は全員のせい、全員が似たような給料を貰い、全員が意識を共有する。そんな組織に、組織の責任を問うことはできても、個人の責任を問うことはできない。でも、組織というのは抽象概念だから、結局は誰の責任も問えない。。。

    3) ビュロクラシー化とつじつま合わせ
    これがいちばんまずいのですが、官僚組織の中だけでなく、企業にも、マスコミにも、社会のすみずみにまでビュロクラシー化とつじつま合わせが蔓延し、教育現場や医療現場にまで入り込んで問題を起こしています。こういうものは教育ビジネスとか医療ビジネスとかいったそれぞれの現場で起こったビジネス化が原因だと思ってきたのだが、この本を読んで、実はビュロクラシー化とつじつま合わせのほうがよっぽど問題なのだと思い至った。

    チェルノブイリがそうであったように、福島も、起こるべきして起こったということがよくわかり、大変良い読書になった。

    自分が日本人だということを別にして。。。これから何年かの日本がどうなって行くのか、とても興味深く思っている。

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