では「日本」とは何だろうか。歴史研究者が根底からの問い直しを試みているように、現在、「日本」という枠組み自体が、大きな問題となっている。「日本」とは、単一不変のまとまりをもった実体ではない。現在の国境は無条件の前提ではないし、また現在の国境の内側にも、民族や地域や歴史の多様性があって、その性格は一様ではない。縄文から現在までを貫く一貫した「日本」らしさ、などというものは存在しない――当たり前ではあるが、こうした諸点を確認し続けることが、「日本美術史」研究においては重要である。
「日本」だけではない。「美術」とは何か、という根本的な問題もある。「美術」という日本語に染み込んだ特権的なニュアンスを嫌って、現代の場合には「アート」というカタカナを使う人もいる。また、いつ、誰が、なぜ「美術(またはアート)」という制度を定め、「質」の保証をしたのか、これまでの「美術史」という学問が果たしてきた保守的な役割を今後どのように変えていけばよいのか、など、「日本美術史」を含む「美術史」には、多くの問題がある。
フェミニズムと日本美術史―その方法と実践の具体例
by 千野香織
大航海 39号
(2001年)
フェミニズムと日本美術史―その方法と実践の具体例
by 千野香織
『千野香織著作集』
千野香織著作集編集委員会編
(2010)
はじめに
もうフェミニズムは終わった、といえるような状況なら、もし本当にそうなら、どんなにいいだろう。「終わった」ということは、フェミニズムが提起してきたさまざまな問題群がもう解決された、ということを意味する--はずである。
だが、地球上のどこにも、そんな地域が出現したという話を聞かない。日本もまた、そういう状況に至ったとは思えない。フェミニズムが無効となる日は、いつかはやってくだろうし、またそうであると信じたいが、しかしその時はまだ来ていない。「もしかしたら百年後か二百年後には」という未来への希望を捨てないようにしながら、できることを続けている、というのが現在の私の状況である。
フェミニズムは、あらゆる領域に共通する問いかけを含んでいる。過去においてもそうだったし、現在でもそうである。したがって当然のことながら、「日本美術史」と呼ばれる領域にも、その問題提起、理論、方法、実践のあり方は、いまのところ有効である。どのように有効か、という具体例を、これから述べていくことにするが、その前にまず、「日本美術史」について、簡単に説明しておこう。
日本美術史とは何か
「日本美術史」という領域は、日本では「美術史」という学問制度の中に位置づけられている(「美術史」一般の中に「日本美術史」があるのは当然だとおもわれるかもしれないが、じつはそうでもない。つい最近まで、ごく一般的な英語の「美術史」の教科書の中に、アジアやアフリカやオセアニアの章は存在していなかった)。
では「美術史」とは何をする学問か。フェルニーによれば(Eric Fernie, Art History and Its Methods , London , Phaidon, 1995)、美術誌とは、視覚的なモノを歴史的に研究する学問であり、美術史家の仕事とは、そのモノがなぜそのように見えるのかを説明することである。美術史が取り上げる対象は、旧石器時代から現代までの、視覚的なモノ全部であり、そこには「高級」なモノも「下級」なモノも、パフォーマンスも映画も、すべてが含まれる。美術史には次のような4つの取り組みがある。
①文字資料を調査し、モノの真贋、制作年代、目的など必要な情報を提供する、
②モノを目で見て調査し、同様に真贋そのほかの査定を行い、また「質」などの評価を行なう、
③モノが属する社会のコンテクストを調査し、また生産と受容の状況を説明する、
④歴史的展開の中にモノを関連づけられるよう、必要なシステムを構築する、また、美術(アート)にふさわしい理論やイデオロギーを考える。
以上がフェルニーの説明である。
このような「美術史」に「日本」という限定をつければ、「美術史」になる、と一応は考えることができる。しかし、では「日本」とは何だろうか。歴史研究者が根底からの問い直しを試みているように(網野善彦『「日本」とは何か』[日本の歴史00]、講談社、2000)、現在、「日本」という枠組み自体が、大きな問題となっている。「日本」とは、単一不変のまとまりをもった実体ではない。現在の国境は無条件の前提ではないし、また現在の国境の内側にも、民族や地域や歴史の多様性があって、その性格は一様ではない。縄文から現在までを貫く一貫した「日本」らしさ、などというものは存在しない――当たり前ではあるが、こうした諸点を確認し続けることが、「日本美術史」研究においては重要である。
「日本」だけではない。「美術」とは何か、という根本的な問題もある。「美術」という日本語に染み込んだ特権的なニュアンスを嫌って、現代の場合には「アート」というカタカナを使う人もいる。また、いつ、誰が、なぜ「美術(またはアート)」という制度を定め、「質」の保証をしたのか、これまでの「美術史」という学問が果たしてきた保守的な役割を今後どのように変えていけばよいのか、など、「日本美術史」を含む「美術史」には、多くの問題がある。これらと取り組み、自らの基盤を問い続けることが、現在の「日本美術史」研究者には求められている。
なぜ過去のモノを研究するのにフェミニズムが重要なのか
だが右に挙げたような諸問題は、日本美術史だけではなく、多くの学問領域に共通するものであろう。現在、どの領域にも、学問の枠組み自体を根本的に問い直そうとする機運が起こっている。そしてそこでは、民族や人種、階級や身分、およびジェンダーの視点からの問題提起が、必要不可欠となっている。なぜなら、それらが複雑に絡み合う政治性の中で、すなわち不均衡な権力関係の網の目の中で、私たちは毎日を生きているからであり、そのような現在を生きる私たちが行う以上、たとえ対象が千年前のモノであって、現在の状況と切り離した研究などあり得ないからである。
モノは、現在を生きている私たちの目の前にある。それについて何かを語る私たちの言葉も、現在の世界に向かって発信される。美術史とは、まさしく現在の学問なのである。現在の世界の状況と真摯に向かい合い、責任をもって研究を遂行していくための羅針盤として、現在の理論が必要になる。
もちろん、いまの世界の中で重要な問題提起を行っている理論は、フェミニズムだけではない。したがって思考の入り口は、フェミニズムでなくともよい。何か一つの理論を身にしみて理解することによって、ドミノ倒しのように現在の世界が抱える問題の連なりが見えてくる――それによって、従来は思いもよらなかった視界が目の前に開けてくる――それが重要なのである。もし人種や民族の問題が自分にとってもっとも切実であれば、そこからでも必ずドミノ倒しは起こる(吉田憲司『文化の「発見」』岩波書店、1999、など)。アイヌ民族の問題、沖縄の問題、在日外国人の問題など、入り口はいくつもある。
だがまた一方で、私は、フェミニズムの提起したジェンダーやセクシュアリティの問題が、やはりもっとも重要だと考えることもある。性の領域は、現在の日本では、言語化にふさわしくないもの、あるいは、論ずるまでもない「自然で本質的なもの」と見なされることが多い。人種や階級に関わる差別には断固として反対する人でも、性差別は「それは男女の本質的な差異に基づく区別だから」と容認してしまう。性をめぐる領域で「これがお前の本質だ」と他人から強制されるのは、拷問されながら生きるのと同じである、しかも性に関わる表現は、現在はもちろん、過去の日本のモノの中にも大量に存在している。それらについての語りが、もしヘテロセクシュアルな男性の価値観だけに基づくものであったら、美術誌研究者は、多くの人々を抑圧する現在の社会システムの共犯者になってしまう。自分とは異なる経験をしながら生きてきた人々への想像力を養うためにも、フェミニズムの問いかけを学ぶことは重要だと私は考えている。
フェミニズムというと、男性が関わりにくいのではないか、という人がいる。だが非植民地経験がなくともポストコロニアルの理論を学ぶことはできるように、男性にもフェミニズム理論は開かれている(大橋洋一『新文学入門』岩波書店、1995、三章)。また、例外はあるが多くの場合、ゲイ男性とフェミニズムは親しい同志である。一方、ジェンダーやセクシュアリティという言葉にはどうしても抵抗があって、これらの言葉を使うのは嫌だという女性もいる。あるいは、自分の指導教員がフェミニズム嫌いだから、これらの言葉は使えないという大学院生もいる。きびしい環境の中でも、なんとか生き延びて自分のできることを続ける方が大事だから、判断は各人が行うしかない。しかし、ともかく地球のどこであっても、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる不均衡な力関係のシステムの中で、私たちは毎日を生きている。それが苦しくてたまらないと思ったら、あるいは抑圧的なシステムの共犯者になりたくないと思ったら、フェミニズム理論は役に立つ。それをどう学ぶか、という行為の選択もまた、各人の決定にまかされている。
日本美術史のフェミニズム嫌いを克服するために
他の理論と同様、フェミニズム理論の進展は目覚ましく早い。その歴史は、さまざまな現実の困難に立ち向かいながら、それを乗り越えようと願ってきた、多くの人々の真摯な努力の軌跡でもある(竹村和子『フェミニズム』岩波書店、2000)。だがそうした真摯な声は、現代人の耳には届きにくい。日本では、マスメディアを通して伝達される偏った情報や、揶揄と嘲笑の気分が、今もなおフェミニズム嫌いを量産し続けている。
したがってフェミニズム嫌いの人々は、どこにでもたくさんいる。だが、日本美術史の領域におけるフェミニズム嫌いには、他の領域には見られない深刻な問題が含まれている。
日本の美術誌や美術評論の領域で、数年前、「ジェンダー論争」とでもいうべき論争が起こった。フェミニズムやジェンダーは「西洋からの輸入品だから」「現代の考えだから」、日本の美術には当てはまらない、というのである。「美術と政治とは無関係だ」という主張もあった。この問題についてはすでに論じたこともあるが(千野香織「美術館・美術史学の領域にみるジェンダー論争 1997~98」、熊倉敬聡ほか編著『女?日本?美?』慶應義塾大学出版会、1999)、「西洋からの輸入品」という考え方の底にひそむ不機嫌なナショナリズムとその危険性を、ここでもう一度指摘しておきたい。「西洋」と「日本」を峻別しようとする、こうした考え方の行き着く先は、「日本」の文化が「西洋」の人間に理解できるはずがない、という排外的なナショナリズムである。世界の多くの地域でそうした主張が始まれば、その後には、互いに自分たちの優越性だけを主張して憎しみ合う、絶望的な状況が待っているだけである。また「現代の考え」を日本美術から遠ざけようとする人は、そもそも倫理的に考えることが嫌いなのであろう。現代の理論への嫌悪感の表明は、時には怒鳴り声のように激しく(たとえば、狩野博幸「江戸時代は江戸時代」『美術フォーラム』1号、1999)、時には、ただ「日本の美」に酔って現実を忘れたい、とでもいうように密やかである。だがいずれにせよ、そこには、思考停止への退嬰的願望がほの見える。
しかし、本人が現実の世界を拒否して過去の「日本の美」に閉じこもったつもりでも、彼または彼女が生み出す言葉は、現在の世界に働きかける。研究者が美辞麗句を尽くして讃える「日本の美」が、現代のコンテクストの中で悪用される、という事態は充分に予想される。もちろんこのような危惧は、「日本」に関わる他の領域にも共通するものではあるが、日本美術史の場合、事情はとりわけ深刻である。なぜなら、「日本の美」と讃えられるモノは、美しい写真として提示され、誰の目にもわかりやすい効果的なシンボルとなって、大衆迎合的なナショナリズムの高揚に抜群の効力を発揮するに違いないからである。
過去の日本美術の写真は、子どもたちの教科書にも掲載される。歴史教科書をめぐる状況が切迫してきた現在、日本美術史の領域に関わる者は、人々の思考停止を促すような研究の結果がどこへつながってしまうのか、いま何が起ころうとしているのか、よく考えてみる必要がある。
日本美術史の個別研究――実践の具体例
さてようやく、日本美術史研究の具体例を列挙できるところまで来た。近年、(広義の)日本美術史の領域でも、さまざまな個別研究が始まっている。それらを、ここでは便宜上、次の4つに分けて紹介する。すなわち、作り手、受け手、作品(表象)、システム、の4つである。もちろんそれぞれのカテゴリーは相互に重なり合っているが、ここでは仮に分類してみた。本文中では、それぞれの研究の著者名や論文名をあげず、数字で示した。この数字は、208ページの文献リストの通し番号と対応している。適宜参照されたい。これらは、必ずしもすべてがフェミニズムを方法論とする文献ではないし、またここには、従来の「日本美術史」の枠組みからは外されてきた領域の研究も含まれている。しかし、それらを他の研究との関わりの中で据え直すことができれば、そこに、何か新しい展望が開けてくるかもしれない。そのように考えて、なるべく広い範囲から研究の具体例を集めてみた。
(1) 作り手
ここでは主として「女性の作り手」という意味である。無視されてきた女性アーティストを発掘・再解釈しようとする試みは、英語圏では早くから行われ、すでに大量の成果が蓄積されている。しかし、日本の研究は遅れており、とくに江戸時代までの研究はきわめて乏しい。女性の発掘などもう古い、という人が時々いるが、そのような発言が、現実に存在する不平等な社会制度を維持・強化する機能を果たしていることを忘れてはなるまい。男女に限らず状況が不平等であれば、それを是正するための活動(ポジティヴ・アクション)は常に必要である。過去に生きた女性たちの生涯を丁寧にたどることによって初めて、現代の私たちの目に見えてくることもある。とりわけご存命の、高齢の方々の場合には、お話を伺って記録をとっておくことが、緊急の課題となっている。
英語圏の研究に刺激され、近世から明治初期の女性芸術家を紹介した49は、このテーマでは初めての、そしていまでもなお唯一の、日本語による単行本である。これは、同じ著者による英語の48に続き、それに基づいて出版されたものである。28は、女性画家の略伝と作品一覧をまとめた丹念な基礎的作業の報告である。非売品であるが、単行本化が望まれる。
時代が古く遡るほど、女性の職業画家の足跡をたどるのは難しくなる。だが、職業的な画家ではなく、絵も描くことのできた女房(女官)、ということであれば、平安時代から存在していた。彼女たちが12世紀の『源氏物語絵巻』の一部を制作したという可能性を考慮に入れつつ、宮廷の女房・土佐の局と紀伊の局の活動を跡づけた1は、まさしく先駆的研究である。
近代に入ると、ようやく女性の作り手の存在も見えやすくなる。にもかかわらず、上村松園など有名な日本画家に関心が集中するだけで、しかも紋切り型の解説が繰り返されているという状況である。女性画家の中でも、特に戦争中の洋画家は、まったく無視されてきた。吉良智子は、一五年戦争中の「女流美術家奉公隊」の活動と作品を詳しく調査し、高齢の女性への聞き取り調査を含む着実な研究を進めている。学会口頭発表の要旨のみが印刷されているが(『美術史』150号、2001)、論文執筆が待たれる。57は、日本に限らず各地の女性映画監督に関する情報を満載した本で、やはり聞き取り(インタヴュー)を含む。55、56は、映画史で見過ごされてきた厚木たかの活動を掘り起こし、また彼女の映画を積極的に読み直そうとしたパイオニア的な研究である。11は、昭和初期に活躍した日本初の女性建築家・土浦信子の生涯を追ったもので、本人への聞き取りのテープに基づくという。29は、1988年に亡くなったアーティスト岸本清子の研究で、読了後、胸が痛んだ。
現在の日本には、数え切れないほど多くの女性アーティストがいる。10、12、18、21、22、23、37、47、66、などは、草間彌生、出光真子、嶋田美子、BUBU、オノデラユキ、笠原恵美子、井上廣子、石内都、神蔵美子たちについての研究だが、そらに多くの女性たちの記録や考察が出版されて然るべきであろう。2001年初頭に「越境する女たち」展を行ったWAN(Women’s Art Network)は、近く、その報告書を刊行することになっている。
女性アーティストの作品を集めた展覧会も、日本以外の国では少しずつ増えてきた。1999年に韓国で、また2000年にシンガポールで開催された展覧会は、それぞれに大規模なものであった。22は、後者に合わせて出版された本の中で、日本の状況を英語圏の読者に紹介したものである。著者の小勝禮子は近年、日本の女性画家への関心を深めており、2001年の秋には栃木県立美術館で日本の女性画家の展覧会「奔る女たち」を開催するという。18は、日本に限らず、各地の現代アーティストを論じたもので(そもそも現代美術の場合、「日本」と「日本以外」の区別はつけにくいし、区別しても意味がないということもある)、著者である北原めぐみの立場が明確に示され、エネルギーに満ちた議論が展開している。
ところで、「作り手」のうちには、狭義の「作者」だけではなく、現代の言葉でいう「ディレクター」も含まれる。あるいは、何かを作り出すシステムそのものも、一種の「作り手」と言えよう。53は、鎌倉時代初期の「華厳宗祖師絵巻」の制作環境の中に、大きな役割を果たした女性・督三位局の存在を想定したものである。発表年次も早く、研究者に大きな刺激を与えた。
作品の注文主や住宅の住み手が女性である場合、彼女は「作り手」だろうか、「受け手」だろうか。どちらとも考えられるが、ここでは「受けて」と考えて、次の項で見ていこう。
(2) 受け手
日本美術史の領域では、かつて西洋美術史に方法を学んだ頃そのままに、今でも、作り手(作者)を中心とする研究が多い。画家は誰か、仏師は誰か、その様式展開はどうなっているか、などの研究が、今でも盛んなのである。しかし、受け手の側からの研究も、少しずつ現われてきている。
40は、ドイツにある江戸時代の「大織冠絵」を、受容美学の方法を用い、ジェンダーの視点も導入しながら論じたものである。筆者は、画面を詳しく分析し、描かれたもの、描かれなかったものの意味を考察した上で、これは結婚を控えた女性に見せるために制作されたものであろう、と結論づけている。また63は、平安時代の女性は物語絵をどのように見ていたか、という視線の問題を、「源氏物語絵巻」を例に論じていく。絵の外側にいた女性たちの意識を考え、その外側に広がる社会のジェンダー構造を分析した論文である。
障壁画を建築とともに考えようという立場も一種の受容論である。45は、かねてから建築と障壁画は共に研究すべきであるという立場で、数多くの論文を書き進めてきた著者たちの、近年の成果の一つである。現在は南禅寺にある建物が、かつては新上東門院(後陽成天皇の母)のための住居だった、という結論には、説得力がある。この結論に導かれて、33は、襖絵の画題をその意味を分析する。天皇の母親という、当時もっとも身分が高いとされていた女性の住居に、なぜ、日本女性ではなく、中国宮廷風の女性と子どもが描かれているのか。32などと併せ、ジェンダーの観点から考察したものである。
73は、今や深刻な問題となった小林よしのりのマンガの分析である。資料批判もしない小林に、なぜ若者が惹かれるのか、それに対して我々は何ができるのか、著者の問いは真剣である。
(3) 作品(表象)
視覚的なモノを、よくよく見ること、何回も見ることから、美術史は始まる。対象が何であれ、それは同じである。4は、中世の絵巻から近代の日本画におよぶさまざまな日本絵画を細部にいたるまで詳しく見て、そこに描かれた女性たちの姿を分析し、考察を加えたものである。文章がわかりやすくルビも多いので、教科書としても最適である。この本でも論じられている「源氏物語絵巻」については、前にみた63も含め、7、8、42、64など、研究が活発化している。他の絵巻や中世絵画の研究も盛んで、2、3、9、35、43、67など、これまでとは違う角度からの分析が続々と現れている。44は平安時代の「平家納経」の画面を詳しく分析し、そこに女性への配慮を読み取った論文、59は写実的だと信じられてきた鎌倉時代の「一遍聖絵」の中に、視線のポリティクスを読み込んだ論文である。
34は、近江の風景を表した室町時代の六曲一双の屏風の中に、男性同士のさり下ない愛情表現の描写を認め、それを積極的に解釈した論文である。日本絵画には、男性同士の性愛を明示または暗示した作品が少ないにもかかわらず、この点については従来、明確な言語化が避けられてきた。38は「西行物語絵巻」の中に、女性同士の、性愛ではないが親しく安らぎに満ちた関係を、作り手の意図に逆らって、敢えて読み込もうとした試みである。
女性と女性の表象は、20世紀になると増えてくる。宝塚はその一例であるが、68は、そこに帝国日本の性のポリティクスを鮮やかに析出した、新しい研究である。日本の演劇と帝国主義の関わりは、13でも論じられている。社会的な文脈を抜きに、舞台の上だけ論ずるわけにはいかないのである。また14は、崔新のフェミニズム理論を用いてサロメを分析している。
性的指向の問題を抜きにして、現代は語れない。イトー・ターリやダムタイプを論じた10や21を読むと、その舞台を見た時の鮮烈な印象が甦る。60は、クィア理論から「やおい」を論じている。同性愛表象をおもしろがって消費してきた従来のような方式ではない、あたらしいレズビアン批評である。
視覚表象の中に表わされた女性とは、どのような存在か。24は日本映画を、26、62はアニメなどのサブカルチャーを扱う。61は、明治以降の女性肖像画のうち、従来は無視されてきた「老女像」を取り上げ、その意味を論じている。著者の光田由里は、現代の女性画家に詳しい美術館学芸員であり、今後の展覧会活動も期待されている。女性の肖像といえば、近年、若桑みどりは、74などで皇后の肖像を論じ始めた。15、20も、天皇やその家族の肖像を分析した論文である。
(4) システム
美術作品または視覚表象は、真空状態に浮かぶ独立した小宇宙ではない。現実の中に置かれ、受容され、意味を付与されることによって初めて存在する、社会的な構築物である。美術史という学問もまた、視覚表象に意味を付与することによって、現代社会の中に存在してきた。つまり作り手も受け手も作品(表象)も、社会のシステムの中にある、ということである。
30は、1993年のシンポジウムで口頭発表した内容で、ジェンダーという観点を日本美術史に導入しようとしたものである。その後の日本の中の研究状況を、19は幅広く紹介し、克服されるべき問題を論じ、また今後の課題を考察している。
どんなものも、社会のシステムからは逃れられない。16は、室町時代の土佐派を語る文献に組み込まれたジェンダー構造を指摘し、また、その政治性に無自覚な現在の状況についても問題を提起する。5、6は、現代の社会システムによって消費される「平安時代の文化」の様相を論じている。
51は、黒田清輝らの描いた洋画の中に、男性が女性に向けていた眼差しを読み取り、それを明治時代の社会構造の中に位置づけて分析した論文である。はじめ1992年のシンポジウムで報告され、日本での「新しい美術史」実践の契機となった。
戦争は常に、巨大なシステムである。70は、一五年戦争時の社会がいかに女性の像を作り上げてきたか、という問題を『主婦の友』などの絵から論ずる。また18は、かつて「帝国日本」の内側に置かれていた韓国の近代絵画の中に、日本からの支配の眼差しを読み、ジェンダーの視点からこれを論じている。
現在の社会の中では、性の表象が大きな問題となっている。46は、アラーキーという写真家とその作品をめぐる現在の日本のシステムを批判的に分析した、広く読まれるべき論文である。
36、65は、ミュージアム展示の政治性を論じている。
毎日の暮らしの中で、私たちの目には、何が、どのように見せられているのか、それはどのように機能しているのか、など、考えるべきことは多い。作品(表象)を生み出すシステムと、それを消費するシステム、その両方を視野に収め、時間的にも空間的にも大きなスパンで考えながら、個々の視覚表象を詳細に分析していくことが必要である。
(sk)
病気でお亡くなりになったのだとしても、インターネット上で言われているように自殺や他殺でお亡くなりになったのだとしても、私には日本という社会に殺されたとしか見えない。
日本では、長いものに巻かれた人だけが認められる。自分の意見を言う人には、日本はつらい。
日本とはなにか、美術はなにか、美術史とはなにか、美学とはなにか、というようなことを問い続けるのが学者だとしたら、千野香織は学者の典型だったのだろう。
日本のアカデミズムのなかで学者的は態度を貫くのがいかに難しいことか、日本の社会のなかで、考えていることを言うのがいかに難しいことか。千野香織が残した文章を読み、その死を考える時、そんな日本の窮屈さに思いがいった。
(sk)
「小谷野敦」が書いたものとして、以下にあげたb9991のブログをはじめ、あちらこちらのサイトで引用されている。有名税であるとはいっても、あまりにも酷い。
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千野香織についての資料
b9991のブログ
http://blog.livedoor.jp/b9991/archives/50201542.html
先日、ウィキペディアで千野香織を編集して「自殺」と書いておいた。案の定しばらくたって見たら消されていた。公式発表は心不全だが、自殺であることは学界周知の事実である。私はキリスト教徒ではないし、別に自殺を罪だと思っていないし、日本人の多くがそうは思っていないだろう。
千野香織は美術史学者だった。はじめ、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのピアニストだった千野秀一と結婚し、のち別れたが千野を名乗り続けた。学習院大学教授で、美貌を謳われたが、2001年の大晦日、自宅で死んでいるのを発見された。研究室の合宿に行く予定になっていたのが、待ち合わせの場所に現れないので、学生が見に行って発見したという。49歳だった。
この千野について、最近おもしろい文章を見つけた。『Image & Gender』2002年11月の号の、上野千鶴子による追悼文である。「春画研究のなかの千野香織さん」という。上野は、90年代後半、春画に熱中していた。しかし千野は、フェミニストらしく、上野のそういう姿勢を批判していた。それより前のことだろうが、ある研究会で、千野が春画を批判する場に上野はいたという。上野は、春画に通人ぶった解釈をする男の学者にうんざりしていたが、千野の発言は「いかにもフェミニストが言いそうな」もので、「もし彼女がその場にいなければ、周囲がわたしに期待したであろうような役まわりそのものだった」という。しかし千野は周囲から冷笑を浴びせられており、「私の立場は卑劣に見えたかもしれない」が、自分なら「彼女のように拙劣な正攻法のやり方をとらず、周囲の期待をはぐらかしながら、男たちの足下をほりくずし、ウラをかくような戦術をとるだろう」とあった。しかしその後には、正攻法で戦う千野に対して「いくぶんかは自分の『すれっからし』ぶりを恥じた」と書いている。
上野は、ちょうどこの頃から、ずいぶん卑怯な人になった。それまでは「売られた喧嘩は必ず買う」などと言っていたのが、勝てそうにないと分かると逃げを打つようになり、特に春画研究では、田中優子や佐伯順子のような「江戸幻想」派とへんてこな座談会をやって私に批判されたりもした。これを読んで、ああ、少しは自分の卑劣ぶりを自覚しているのだな、と思ったものだ。
ところでそこにも書いてあるが、千野は死ぬ二、三年前に、稲賀繁美を相手として「美術史ジェンダー論争」なるものをやっていた。それで、千野を殺したのは稲賀だ、などと言う人がいるので言っておくと、『美術史フォーラム21』という雑誌の創刊号(1999)で、現在同志社大学教授の日本美術史家・狩野博幸という人が、すさまじい下品さで千野を罵っている。とりあえずは学問上のことではあるのだが、個人攻撃としか思えないもので、『別冊宝島 学問の鉄人』で、千野が美しい姿の写真を載せてインタビューを受けているのを揶揄したり、すさまじい。
ところで美術史の若桑みどりは、千野の姉御筋とされている。盛んに反体制を標榜しながら、平然と紫綬褒章を受け取った人だ。上野はさすがに紫綬褒章は貰わないだろうが、東京都で上野が講演を依頼されてから取り消された事件では、若桑が先頭にたって抗議運動をしている。なんだか私には千野が、若桑とか上野とかの策士、いや策女らの犠牲になったような気がしてならない。
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若桑 みどり(1935年 – 2007年)は、日本の美術史学者。ジェンダー文化研究所を主宰し、文化のなかにおけるジェンダーについて研究を進めた。1996年にイタリア共和国カヴァリエレ賞を、2003年に紫綬褒章を受賞した。
稲賀 繁美(1957年 – )は、日本の美術研究者、比較文化学者。男性。国際日本文化研究センター教授。
狩野 博幸(1947年 – )は、日本近世美術史家、同志社大学教授。
千野香織
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