石牟礼道子

「九十九万九千九百九十九の次は何か、いうてみろ」
と亀太郎がいう。手にあまる大きなお椀からおつゆをこぼしかけ、わたしはへきえきして呟く。
「百万」
 数というものを覚えかけてみると、大人たちが面白がって、もちっと数えてみろ、もちっと数えてみろという。数えてゆくうちにひとつの予感につきあたる。たぶんこれはおしまいという事にならないのだと。どだいそのように初歩的な数ならべなどは、五、六十銭の日傭とり人夫の日常世界には無意味なのだけれども、親バカと焼酎の肴に思いつくのである。娘にすれば親のために答えてみせねばならなかったが、いったいいくつまで数えてみればおしまいということになるだろう。数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。
 一度かんじょをはじめたら最後、おたまじゃくしの卵の管のような数の卵が、じゅずつながりにぞろぞろびらびら、自分の頭の中から抜け出して、そのくねくねとつながる数をぞろ曳きながら、どこまでも「この世のおしまい」までゆかねばならぬ直感がする。わたしはすっかりおびえて熱を出す。

9 thoughts on “石牟礼道子

  1. shinichi Post author

    椿の海の記

    by 石牟礼道子

    Tsubaki

    第一章 岬

    (p.28 – p.29)


    (p.9 (書き出しの部分))

     春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。
     大崎ケ鼻という岬の磯に向かってわたしは降りていた。やまももの木の根元や高い歯朶の間から、よく肥えたわらびが伸びている。クサギ菜の芽やタラの芽が光っている。ゆけどもゆけどもやわらかい紅色の、萌え出たばかりの樟の林の芳香が、朝のかげろうをつくり出す。

    **

    (p.10)

    「やまももの木に登るときにゃ、山の神さんに、いただき申すやすちゅうて、ことわって登ろうぞ」
     父の声がずうっと耳についてくる。
     やまももの梢の色の、透きとおるようにして天蓋をなしている中を染まりながらしばらくゆき、そこを抜けてふくらみのある風の中にはいると、もう潮っぽい風の吹く岩の上である。わたしは岩の上に膝をつき、つわ蕗の葉を小さなじょうごの形につくって、磯のきわの湧水をすくって飲む。清水は口に含むとき、がつっとした岩の膚をしていて、のどを通るとき、まろやかな男水の味がする。
    「みっちん、やまももの実ば貰うときゃ、必ず山の神さんにことわって貰おうぞ」
     父の声がまたいう。

    **

    (p.12)

     川の神さま方は、山の神さまでもあって、海からそれぞれ川の筋をのぼり、村々を区切って流れるちいさな溝川に至りながら、田んぼの畦などを、ひゅんひゅんという声で鳴きながら、狭い谷の間をとおってにぎやかに、山にむかっておいでになるが、春の彼岸に川を下り、秋の彼岸になると山に登んなさるという。年寄たちは声をひそめ、お通りの声に耳を澄まして小鳴り聞き、どぶろくを呑んだりだんごを食べたりして、ことなくお通りが済むようちいさな祭を部落ごとに行うのである。川祭は、春の彼岸ははじまりの日に、秋の彼岸は、醒めの日に定まっていて、年二回、主に女たちが主催して行うのだが、部落ぜんぶの家をまわり持ちで、その年の祭に当る家の主婦たちは、どぶろくを仕込んだり、煮〆用の里芋や芋がらや、こんにゃく玉のいいところを、日常は使わずに残しておいたり、だんごやおはぎを作ろうとおもえば、盆ささげという小豆の種類を、その日のためにとっておいたりするのだった。

    **

    (p.14 – p.15)

    暑さ寒さも彼岸まで、というとおり、南国だとて彼岸がくるまで囲炉裏をたいていて、囲炉裏の煙も、御馳走のうちだと目をしばたたきながら、老婆たちは祭のお伽をする。そのような年寄たちの話のあいまにおそるおそるきいてみる。
    「川の神さまは、どげんひと?」
    「うん」
    「こまんかひと? ふとかひと?」
    「うーん、こもうもならす、ふとうもならす」
    「河童な?」
    「しーっ」
    「山童な?」
     老婆たちは口に指を立てて首を振る。
    「神さんな、見ちゃあならんと」
     このような夜のためには、煙の少ないどんぐりの大木をくべてあるのだが、とくべつに肉の厚いどんぐりの木の皮が、赤い燠になって、耳だけになっているようなみんなの前でぐゎらりと反りかえり、燠と燠との間に青い炎が立つ。すると、しゃがれた優しいしわぶきの声が、えへん、えへんと納戸の奥からして、おもかさまが
    「もう、からいもの焼けたこだるばえ」
    という。
    「あら、めくらさまに教えられた」
     婆さまたちはそういって、燠の下の灰をさしくべ用の木の皮でかきいだす。炎がくずれる灰の下から、ふうわりとうすい皮になって焼けた紅がらいもが、三つも四つも出て来て、いい匂いがするのだった。

    **

    (p.19 – p.20)

    「そこからまたゆけば?」
     そこからまたゆけば、そこからまたゆけばとわたしは父の耳にいう。
    「いちばん先は、どこ?」
    「いちばん先までゆこうには日の昏るっと」
    「日の昏れてから先までゆけば」
    「夜の明くっと」
    「夜の明けてから先は」
    「まだまだ、陽いさまは先までゆかすと」

     陽いさまのゆかす先まで行きたいとわたしはいう。
    「いちばん先まじゃゆかれんと」
    「なして」
    「命の足らんと」

     わたしはだんだん、悪いことをきいているような気になってくる。
    「一、二、三、四、五、とかぞえてゆけば先はどこまであると?」
    「百、千、万ちあると」
    「万の次はなん?」
    「億ちゅうと」
    「オクの次は」
    「兆」
    「ちょう? ちょうの次は?」
    「うーん」
    「いつおしまいになっと?」
    「しまいにゃならんと」

     終わらないということをきいて、うしろの山がみるみるふくらんでくるように恐ろしくなり、わっと背中が重くなる。そういう子どもをおんぶしている父の背中はもっと重いにちがいない。わたしはまたそれがおそろしうて絶句してしまうのだ。

    **

    (p.25)

     青絵のお椀の蓋をとると、いい匂いが鼻孔のまわりにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている。すると祖父の松太郎が、自分用の小さな素焼の急須からきれいな色に出した八女茶をちょっと注ぎ入れて、薬味皿から青紫蘇を仕上げに散らしてくれるのだった。

    Reply
  2. shinichi Post author

    第二章 岩どんの提燈

    (p.39)

     どこまでもどこまでも干いてゆく不知火海の遠浅の、干潟の上のお月さまをみあげながら歩いてゆくと、この海のおだやかな波の形が、そのまま坐ったような砂丘が、限りなく広がってゆく。
     爪先にひたひたと寄りなずみながら、いつの間にか干いてゆく渚に立てば、前面の天草の沖合に、漁火がちらちらとつながって明滅し、旧暦八月八朔の潮のとき、この漁火にみえる明滅は不知火とも称ばれるのだった。

    **

    (p.46 – p.47)

    「ひとりで徒然なかかなあ、こん船」
     と娘はいう。
    「うーん、ひとりじゃが」
     そういって彼は煙管をとり出す。
    「徒然なかかもしれんばってん、びなは這うてくるし、蟹は這うてくるし、星さまは毎晩流れ申さるし」
     竜骨にくっついているヒトデをぽいと煙管の雁首ではねおとす。
    「潮のくれば、さぶーん、さぶーんちゅうて、波と遊んでいればよかばってん、にんげんの辛苦ちゅうもんは・・・・・・」
     亀太郎はまたあばら骨をふくらましてひと呼吸すると、
    「こういう船のごつ、いさぎようはなか」
     という。

    **

    第三章 往還道

    (p.63)

    「道路ちゅうもんのごつ銭食うもんはなか。もうえらい銭食うて。この道路にゃ、かぐめ石の奥の山ば二山食わせても、まだ足らんじゃった」
    と春乃はいう。
    「あの山はとっておきの、最後に残ったよか山じゃったて」
    そして溜息をつき、自分に云いきかせる。
    「道路は失敗したばってん、この道のぐるりにゃ、よか町の出来るかも知れんねえ」
    よか町であったかどうかは今もって判断しがたいが、辺鄙な浦々の、松の影がさしている磯のかたわらに、日本窒素肥料株式会社というのがきて港が出来る。そこから村々の中にむかって道路が一本のびてゆけば、道のへりに家並みが出現して、町というものの雛形が出来あがってゆく。

    (p.70 – p.71)

     道のはたに出来てゆく店という店は、酒屋、女郎屋、お湯屋、紙屋、万十屋、米屋、野菜屋、豆腐屋、アンコ屋、竹輪屋、石塔屋、こんにゃく屋、タドン屋、と商いの名をそのまま屋号にして、髪結いさんにはさんをつけ、髪結いの沢元さんと称んでいた。ほかに称びようもないそのものずばりの屋号を持ったちいさな店が、思いついたように点々とあらわれると、その間の空地に「会社ゆきさんの家」がぽつぽつと建った。私の家から下手には、染屋、鍛冶屋、米屋、船員さんの家、学校の小使いさん、タドン屋、花屋、煙草屋、学校の道具屋、第二小学校と続き、その先の田んぼと溝とをへだてて、ひときわ広大な日本窒素株式会社があるのだった。そのような町並の、酒屋やカフェーも交り出した界隈を、深夜じゅう千鳥足で、ひょとひょとともつれながら往き来して、ゲロを吐いたり、取っ組み合ったりしていた男たちの、酔いどれ蚊ともいうべき足跡も、朝の新しい往還道についていた。

    **

    第四章 十六女郎

    (p.97 – p.98)

    「小娘のくせしとってなあ、あんまり客のとり過ぎじゃったろうもん。中学生ば騙かして」
     するとその隣の「こんにゃく屋」の小母さんが
    「ぐらしかですばいあんた、そっでも。深かわけのあって売られて来たんじゃろうもね。おっかさーんちな、たったひと声、出したちばい。息の切れる間際にたったひと声、おっかさーんち」
     人びとはおし黙った。
    「仏さまじゃがなもう。かあいそうに」
     天草の島から売られて来た十六の小娘の、毎夜毎夜売りひさがれてきた姿を見知っていた栄町通りの人びとは、こんにゃく屋の小母さんの声にたしなめられるようにおし黙った。そして、人びとは、いまわのきわの娘淫売の、おっかさーんというひと声をたしかにその時きいた。わたしは、牡丹色に光るびらびら簪が、しゃらんと鳴って、畳の上に落ちる音をきいた。血の海の中にそれが浮くのをみた。

    **

    第六章 うつつ草子

    (p.130 – p.131)

     その春の海のくさぐさと、野の芽立ちのくさぐさを集めた五目も六目もの雛の祭のときのちらしずし。貧しいという島の食べ物の、話だけでなくて応用の実際をやってみせるのだけれども、今おもえばなんと多彩で豊富な海の幸、山の幸の、ほんの一部分だったことだろう。今どきの魚屋やマーケットの店頭に、茹でてむき身にしてある貝などは、もう吐きすてたチューインガムのカスのようなもので情けない。あした、あさりご飯をつくろうとおもえば今日、あさりを採りにゆく。すると、あさりだけでなく、アオサも巻貝の類もはまぐりも潮吹き貝もぶう貝も、ひじきまでも採ってくる。欲ばって採ってくるのではなしに、採って帰らぬと、海の中の貝の人口がふえてふえて、うじゃうじゃになりはせぬかとおもうくらいに、もうそこらじゅうにいるのだったから。海に降りる山道のついでにつわ蕗もわらびも山椒も採れた。山道伝いに、一日海に下れば、ゆうに一週間分は、多彩に食べわけられるしゅんの海山のものを、背負いながら帰っていた。春の海山のものがそうであったように、秋のものはなおさらにまた種類がことなり、歳時記とは暦の上のことではなくて、家々の暮らしの中身が、大自然の摂理とともにあることをいうのだった。
     天草を水俣の波うちぎわから眺めると、米のない島、水のない島、飢饉のつづく島、仕事のない島、人の売られてゆく島というてきかせられても、貝も居ろうに魚も居ろうに、食べられる草や木の芽のいろいろも生きて居ろうに。なぜ人はそこから流れて来て売り買いされ、いったん売られてしまうともう、淫売! などといやしめられるのか。そのような世界を産み出して、自身は動かぬ島というものが、未知の謎を胎みながら微光を放って、空とひとつになってゆく海の向うに浮き出ていた。

    **

    第七章 大廻りの塘(とも)

    (p.157)

    秋の昼下がり頃を、芒の穂波の輝きにひきいられてゆけば、自生した磯茱萸の林があらわれて、ちいさなちいさな朱色真珠の粒のような実が、棘の間にチラチラとみえ隠れに揺れていて、その下陰に金泥色の蘭菊や野菊が昏れ入る間際の空の下に綴れ入り、身じろぐ虹のようにこの土手は、わだつみの彼方に消えていた。するともうわたしは白い狐の仔になっていて、かがみこんでいる茱萸の実の下から両の掌を、胸の前に丸くこごめて「こん」と啼いてみて、道の真ん中に飛んで出る。首をかたむけてじっときけば、さやさやとかすかに芒のうねる音と、その下の石垣の根元に、さざ波の寄せる音がする。こん、こん、こん、とわたしは、足に乱れる野菊の香に誘われてかがみこむ。

    (p.161)

    「大廻りの塘」にはいろいろおらすとばい。
     と年寄りたちはいう。舟から揚げて担いだ魚はうしろから、山童たちや狐たちがついて来て、一匹おっ盗り、二匹おっ盗りして、替りに、馬のわらじのひっきれなどを入れてくらすというのである。そこでこの塘を通るときは、時々、えへん、えへん、と咳払いなどして、担いでいる手綱の柄などをたたきたたき、
    「今日はおかげで、えらいよか漁のあったぞ。家のもんどもも喜ぼうぞ。おかげさまじゃった。
     どりゃ、ここらあたりで、小便どもさせてもらおうかい」
    などとことわけをいわねばならぬ。黙って通ったり、いきなり小便をひっかけたりしたならば、そこらに憩うていらっしゃる方々をおどろかしてしまうのである。ここらの狐の眷属たちは、八幡大神宮さまの神使であるという話だったが、人間よりは神格をそなえたものたちである筈なのに、むかし信太の狐が、「恋しくばたづね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と狐の筆で歌をのこして人間を恋うて、恋い死したという浄瑠璃の、狐の母子のあわれな物語は、祖父の権妻殿のおきやさまが、身ぶり手ぶりで語ってくれていたから魂をうばわれて、わたしはなんとか白狐になって、それから人間の女性というものに化身してみたくてならなかった。

    **

    第八章 雪河原

    (p.194 – p.196)

     この世の成り立ちを紡いでいるものの気配を、春になるとわたしはいつも感じていた。
     すこし成長してから、それは造物主とか、神とか天帝とか、妖精のようなものとか、いろいろ自分の感じているものに近い言葉のあることを知ったが、そのころ感じていた気配は、非常に年をとってはいるが、生ま生ましい楽天的なおじいさんの妖精のようなもので、自分といのちの切れていないなにものかだった。
     おかっぱの首すじのうしろから風が和んできて、ふっと襟足に吹き入れられることがある。するとうしろの方に抜き足さし足近寄っていたものが、振り返ってみた木蓮の大樹のかげにかくれている気配がある。高い梢に眩しく浮上している半咲きの、白い花と花の間の空に、いのちの精のようなものを見たような気がして、わたしはそこらの茱萸の木、櫨の木、椿の木などのめぐりを歩いてみるのである。それは一種の隠れんぼだった。
     この世の種々相はもう子どもなりにいろいろ感得されて、たのしいことばかりではない。頭で整理してみるということをまだ全然知らないこのような童女期に、お日さまお月さまの出はいりなさるかなたが見透せるわけではないけれど、この世とは、まず人の世が成り立つもっと以前から、あったのではないかという感じがあって、山野の霧の中にいるような、晴れやらぬとまどいにおちいっていた。
     ものをいいえぬ赤んぼの世界は、自分自身の形成がまだととのわぬゆえ、かえって世界というものの整わぬずっと前の、ほのぐらい生命界と吸引しあっているのかもしれなかった。ものごころつくということは、そういう五官のはたらきが、外界に向いて開いてゆく過程もをいうのだろうけれども、人間というものになりつつある自分を意識するころになると、きっともうそういう根源の深い世界から、はなれ落ちつつあるのにちがいなかった。
     人の言葉を幾重につないだところで、人間同士の言葉でしかないという最初の認識が来た。草木やけものたちにはそれはおそらく通じない。無花果の実が熟れて地に落ちるさえ、熟しかたに微妙なちがいがあるように、あの深い未分化の世界と呼吸しあったまんま、しつらえられた時間の緯度をすこしずつふみはずし、人間はたったひとりでこの世に生まれ落ちて来て、大人になるほどに泣いたり舞うたりする。そのようなものたちをつくり出してくる生命界のみなもとを思っただけでも、言葉でこの世をあらわすことは、千年たっても万年たっても出来そうになかった。

    **

    (p.205)

     どのようなひとことであろうとも、云う人間が籠めて吐く想い入れというものがある。父が「淫売」というとき、母がいうとき、土方の兄たちがいうとき、豆腐屋の小母さん、末広の前の家の小母さんがいうとき、こんにゃく屋の小母さんがいうとき、全部、ちがう「淫売」なのだ。けれども微妙なその発語への、ひとりひとりの思いのようなものは、どこかでひとつに結ばれていた。外ならぬ「淫売」というその言葉によって、淫売であるあの、あねさまたち自体の姿によって。
     淫売という言葉を吐くときの想い入れによって、自分を表白してしまう大人たちへの好ききらいを、わたしは心にきめだしていた。末広の妓たちを慕わしくおもっているわたし自身が、大人たちへのひそかなリトマス試験紙そのものであった。大人足しは常にどこででも反応を示していたのである。

    Reply
  3. shinichi Post author

    第九章 出水

    (p.229)

     だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。地の中をもぐってどこかに棲み場所を持っているおけらとか、空にむかって漂いのぼる樹木の花粉とかになって、木の中石の中からゆく道をゆけば、どこに出るのだろう。けれども青鬼というものには遭いたくない、と突然おもう。鬼というもののみじめさはかなわない。人間はなぜ,自分のゆきたくない世界を考え出すのだろう。それからわたしは,あっと思いあたる。鬼たちよりも,それを考え出す人間の方がむざんなのだと。
     見えている世界より、見えない世界の方がよりこわい。目をつぶって、掌でそろりと撫でればモノというものがわかり、猫の鼻の不思議のような嗅覚をわたしは持っていた。その掌をかざせば指の間から天井が見える。天井の模様が見える。天井の模様はまだ見ぬ他界への入口だった。幻怪な形の鬼たちの太ももや、片耳や、穴の深い壷が、のびちぢみしている。仏さま仏さま、指の間からお仏壇を見る。

    Reply
  4. shinichi Post author

    第十一章 外ノ崎浦

    (p.269 – p.270)

     母なる狂女の肩を抱え、春乃とはつの姉妹はかわりばんこに、桶に漬けた髪の、先の方にまわって、額の向きを替えてやりながら洗ってやるのだが、熱さ加減にしたてた椿の実の煎じ汁の中で。うなじの奥から耳朶のうしろから、ぼうっと薔薇色に血がさす地肌があらわれて、
    「おもかさま、気分はどげんでございまっしゅ」
     春乃がそういえば、いつのまにかあの、突っ張っていたような撫で肩がほっそりと、われから首をさしいだす形になっている。聞くも胸抉らるる嗚咽の気配がおさまっていて、この姉妹は、おっかさま、という筈の場合にも、おもかさま、とよくいうならいだった。
    「おもかさま、気分どげんでございまっしゅ」
     お湯の足し係で、柄杓を持って立っているこちらもほっとして、春乃の口まねをしてそのようにいう。
    「あい、あい」
     おもかさまが二度返事をするときは、孫への専用の返事なのである。拭きあげてやって、ようやく柔らかになった首すじを傾けて、おもかさまが幽かな含み笑いをしたりすれば、わたしはいそいそ櫛箱をかかえ出し、例の宝ものの、「末広」のあねさまたちからもらい集めた、水色の手絡などとりひろげ、まだ乾ききらぬおもかさまの洗い髪によりそって背中にまわる。おもかさまは、うしろ探りに手をまわしてきて、孫の全身を撫でてたしかめ、きげんが良い。
    「ほほほ、また嫁御さんつくりかえ」
    「あい、よか嫁御さんの出来なはります」

     わたしはぺんぺん草を口にひきくわえ、髪結いの沢元さんきどりで忙しい。

    Reply
  5. shinichi Post author

    石牟礼道子: 熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。
    水俣実務学校卒業。

    鹿児島県出水(いずみ)市

    Imizu


    Reply
  6. shinichi Post author

    Ayatorinokiあやとりの記

    by 石牟礼道子

     ところがそんときの鹿は、なかなか淵の中からあがってこんじゃった。日が昏れて谷も暗うなった。三日月さんの出なはった。谷の水も冷とうなる、父さんも寒うならす。射とうかね、と父さんは思わいた。しかし、頭と角だけ、暗か水の上に出しておるのを射てば、角が折れる、頭もくだける。それでは銭にならんと我慢をしておらいた。我慢しておらいたがひもじさもひもじ、辛棒が切れて、鹿がちょっと水の上に肩のあたりまで出したときに、ズドーンとやらいた。
     そしたらなあ、不思議じゃったち。暗か淵の水の上に、白い鹿の角がみるみるひろがって、美しか木になったち。するするするする枝をひろげて、淵の中から生えたげな。その美しさが桂の木の如ったち。父さんな、ああ! しもうた、神さまじゃったと思わいたげな。

    **

    たしかにひらりと、今度は水の面に黄金色のかげが映って消えたのです。みっちんは、水の底をかきわけでもするような気持で、くるりとうしろを向いて草の中に踏みいりました。とたんに、あの日向くさい匂いがむうとしたので、息をひそめました。
    ──────やあ、ここはあのひとたちのやぼくらじゃあ!
     そこは、まだ芽吹かない茱萸の木がこんもりと大人の背丈くらいに繁っている藪くらでした。夕方近い陽が、藪くらの中に、靄のかかったような柔らかい光を投げかけていました。あのひとたちの萱の寝床が、まるで黄金色の髪を梳き流してふわふわさせたように照っていました。その一本一本の萱草の、まるで選りすぐってきたような柔らかい線と光。

    **

     蛇苺というのが同じ藪の中にたくさん熟れていて、それは蛇のために、みんながまるまる残しておくのです。けれども、なぜか蛇たちの苺採りの時間は別にあるらしく、いっこうに苺に向き合っている蛇の姿を見たことがないのが不思議でした。ひと粒ひと粒の苺をそっと見やると、蛇の子どもが小さな口をあけて、ちょんと囓ったような傷があったりするので、だれとも逢わない蛇と苺だけの時間があるかもしれないのでした。

    Reply
  7. shinichi Post author

    2024年1月19日(金)

    みっちんが見た大人の世界

    今週の書物/
    『椿の海の記』
    石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊

    1968年に厚生省が水俣病の原因はチッソ水俣工場の廃液に含まれるメチル水銀化合物だと発表した。1969年には石牟礼道子の『苦海浄土』が出版され、水俣病が大きな問題になってゆく。水俣病の患者たちはチッソ水俣支社に行き、会って話し合うことを求めるのだが、支社のお偉いさんたちは「要望は本社に伝える」というばかり。らちがあかないと思った患者たちが上京し、むしろ旗を掲げてチッソ本社前に座り込んだ。

    20歳になるかならないかの私は、その光景を何回も目にしている。その一年前に市ヶ谷の自衛隊の前を通りかかり、バルコニーで演説する三島由紀夫を目にしてはいたが、その記憶よりも、水俣病患者の座り込みの記憶のほうが、はるかに鮮明だ。

    座り込みをした人たちの多くは患者ではなく、そのほとんどが、水俣からやってきた若くはない支援者たちと、長髪にジーンズ姿の東京の若い支援者たちだった。当時の丸の内を歩くサラリーマンやOLたちの身なりがとてもよかったためか、座り込む人たちの「決してきれいとはいえない身なり」は際立っていた。

    水俣からやってきた支援者たちのなかに石牟礼道子もいた。ひとりだけ目立つ女性がいたが、私にはそれが石牟礼道子だという認識はなかった。『朝日ジャーナル』に載っていた写真などで見るかぎり、石牟礼道子の容貌は 特に目を惹くようなものではない。それでも石牟礼道子は、人の目を惹いた。

    石牟礼道子は、よく、巫女のような女性だったと言われる。自分の使命を知っているようで、世の中のために力を尽くそうとし、感受性が強く、あらゆるものと無意識に共感してし、直感的に物事をとらえ、まっすぐに行動を起こす。根拠も理由もないのに、何をしたいかだけははっきりしているので、言動には揺るぎがない。そんなことから巫女のようだと言われてきたようだ。

    ただ私には、石牟礼道子は、なぜか目が離せない、とても不思議な存在に映る。シャーマンが人を惑わすときのような微笑みを浮かべ、場末の酒場の女が男を見るような目で人を見る。集まった人たちに手料理を振る舞い、会話には積極的に加わらないのに、いつもみんなの中心にいる。そんな人が、目立たないわけがない。

    石牟礼道子は、尾関章さんの『めぐりあう書物たち』にも2週続けて取り上げられた。

    苦海浄土を先入観なしに読む(2021年10月22日)
    https://ozekibook.com/2021/10/22/苦海浄土を先入観なしに読む/

    苦海の物語を都市小説として読む(2021年10月29日)
    https://ozekibook.com/2021/10/29/苦海の物語を都市小説として読む/

    である。2回とも『苦海浄土』についてだ。この2回はとても面白い。石牟礼道子は感性の人で、尾関章さんは論理の人。論理の人が,感性の人が書いた本の書評をしたのだから、面白くないはずがない。

    石牟礼道子の「取材」は、面白い。自動車で移動する人たちを自転車で追いかけ、挨拶もせずに現場に上がり込む。メモは取らないし、録音もしない。あとで証拠を見せろとか、根拠はなにかと聞かれても、何も持っていない。頼りは自分が感じだことと、自分が覚えていること。そして大学や図書館に残された資料。それで十分なのだ。

    皇后雅子の祖父で当時チッソの社長であった江頭豊が患者のところをまわったときのことを、石牟礼道子は克明に書いているのだが、石牟礼道子にとっては、本当にそのような会話が交わされたのかどうかよりも、その場の空気がどうだったのかとか、江頭豊がどのような人間だったのかということのほうがずっと大事。それが文章になるのだから大変だ。実際、当時のチッソ水俣工場長で後に水俣市長を4期も務めた橋本彦七のことを書いた文章にはたくさんの棘が秘められる。

    丸の内に出て来て、聳え立つビルを見て、まるで卒塔婆のようだと書く感性。江頭豊や橋本彦七を醜いと見て取る直感。あの顔、あの表情、あの声、あの仕草。反権力と見えながら、上皇后美智子といとも容易く近づいてしまう。男にとって、これほど手強い女はいないだろう。

    で今週は、その石牟礼道子がまだ幼い「みっちん」だった頃のことを書いた一冊を読む。『椿の海の記』(石牟礼道子著、朝日新聞社、1976年刊)だ。著者は1927年生まれ。代表作の『苦海浄土』があまりにも有名なためか、他の作品が顧みられることは少ないが、『椿の海の記』『あやとりの記』『葭の渚』といった「みっちん」シリーズ、そして『西南役伝説』のような歴史物、『食べごしらえおままごと』のような料理に関する本、そして詩集から自伝まで、著作の範囲は驚くほど広い。『椿の海の記』は、そのなかでも石牟礼道子らしさが濃くあらわれ物語で、「みっちん」と大人との絡みのなかに描かれる石牟礼道子の自然観・文明観が読みどころだ。

    中身に入ろう。

     春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。
     大崎ケ鼻という岬の磯に向かってわたしは降りていた。やまももの木の根元や高い歯朶の間から、よく肥えたわらびが伸びている。クサギ菜の芽やタラの芽が光っている。ゆけどもゆけどもやわらかい紅色の、萌え出たばかりの樟の林の芳香が、朝のかげろうをつくり出す。

    書き出しからこの調子だ。これを4歳の「みっちん」が見て、そして感じたことだと言われても「はい、そうですか」とは、いかない。私には、子どもの頃はもちろん、大人になってもそんな感性は育たなかった。

    歩いてゆく途中、

    「やまももの木に登るときにゃ、山の神さんに、いただき申すやすちゅうて、ことわって登ろうぞ」

    というように、石牟礼道子の父親の声がずうっと耳についてくる。現実というよりも、夢に近い。

    言葉には、

    だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。

    には、

    数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝てる間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずうっとおしまいになるということはないのではあるまいか。数というものは、人間の数より星の数よりどんどんふえて、死ぬということはないのではあるまいか。稚い娘はふいにベソをかく。数というものは、自分の後ろから無限にくっついてくる、バケモノではあるまいか。

    季節には、

    この世の成り立ちを紡いでいるものの気配を、春になるとわたしはいつも感じていた。

    宇宙には、

    この世とは、まず人の世が成り立つもっと以前から、あったのではないかという感じがあって。。。

    というように、感性だけの、しかし的確な文章があてられる。

    天草は

    天草を水俣の波うちぎわから眺めると、米のない島、水のない島、飢饉のつづく島、仕事のない島、人の売られてゆく島というてきかせられても、貝も居ろうに魚も居ろうに、食べられる草や木の芽のいろいろも生きて居ろうに。なぜ人はそこから流れて来て売り買いされ、いったん売られてしまうともう、淫売! などといやしめられるのか。

    と描かれ、死んだ十六女郎には、

    「小娘のくせしとってなあ、あんまり客のとり過ぎじゃったろうもん。中学生ば騙かして」
     するとその隣の「こんにゃく屋」の小母さんが
    「ぐらしかですばいあんた、そっでも。深かわけのあって売られて来たんじゃろうもね。おっかさーんちな、たったひと声、出したちばい。息の切れる間際にたったひと声、おっかさーんち」
     人びとはおし黙った。
    「仏さまじゃがなもう。かあいそうに」
     天草の島から売られて来た十六の小娘の、毎夜毎夜売りひさがれてきた姿を見知っていた栄町通りの人びとは、こんにゃく屋の小母さんの声にたしなめられるようにおし黙った。そして、人びとは、いまわのきわの娘淫売の、おっかさーんというひと声をたしかにその時きいた。

    という文章が用意されている。

    「みっちん」は、幼くはない。幼い「みっちん」の目を借りて、口を借りて、手を借りて、石牟礼道子が描き出す人間と自然。豊富な海の幸や山の幸をいただくシーンもふんだんに描かれる。

    青絵のお椀の蓋をとると、いい匂いが鼻孔のまわりにパッと散り、鯛の刺身が半ば煮え、半分透きとおりながら湯気の中に反っている。すると祖父の松太郎が、自分用の小さな素焼の急須からきれいな色に出した八女茶をちょっと注ぎ入れて、薬味皿から青紫蘇を仕上げに散らしてくれるのだった。

    といった具合だ。「みっちん」にとっても、「みっちん」の祖母の「おもかさま」にとっても、そして物語に出てくるすべての大人たちにとっても、豊かな自然はとても身近だ。メチル水銀化合物に穢される以前の水俣の、なんと清々しいことか。

    「みっちん」が私たちの親の世代だとすれば、「おもかさま」の世代はその二代前。近代というものがまだ入りこんでいない、前近代的な地方色の色濃い世代だ。だから「みっちん」と「おもかさま」の世界には、今の日本からは考えられない前近代的な空気が漂っている。それが「みっちん」シリーズの魅力になっているのだろう。

    ここで、ふと、気がついたのだが、どうも私には石牟礼道子の批評ができないようだ。ただただ、文章を切り張りしているだけではないか。

    もう、この「書評」は、止めたほうがいいだろう。最後に気に入っている文章を載せて終わりにしよう。

    秋の昼下がり頃を、芒の穂波の輝きにひきいられてゆけば、自生した磯茱萸の林があらわれて、ちいさなちいさな朱色真珠の粒のような実が、棘の間にチラチラとみえ隠れに揺れていて、その下陰に金泥色の蘭菊や野菊が昏れ入る間際の空の下に綴れ入り、身じろぐ虹のようにこの土手は、わだつみの彼方に消えていた。するともうわたしは白い狐の仔になっていて、かがみこんでいる茱萸の実の下から両の掌を、胸の前に丸くこごめて「こん」と啼いてみて、道の真ん中に飛んで出る。首をかたむけてじっときけば、さやさやとかすかに芒のうねる音と、その下の石垣の根元に、さざ波の寄せる音がする。こん、こん、こん、とわたしは、足に乱れる野菊の香に誘われてかがみこむ。

    私にはこんな文章は書けない。

    Reply
  8. Pingback: 金曜日 | kushima.org

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *