石牟礼道子

 はじめて水俣市が主宰した慰霊祭に、会場設営と受けつけをやった市役所吏員を別として、一般市民が、わたくしをのぞいてただひとりも参加しなかったのである。
 そのようなことはしかし予想されないことではなかった。 水俣市全体が異様なボルテージを高めつつあったから。 三十四年暴動直後にくっきりと変わって行った市民の水俣病に対する感情がそっくりそのまま再現しつつあったのである。会社に対して裁判も辞さぬと朝日新聞に決意表明をした胎児性死亡患者岩坂良子ちゃんの母親上野栄子氏の家には、チッソ新労が洗濯デモをかけるぞというデマ情報が入っていた。
水俣病ばこげんなるまでつつき出して、大ごとになってきた。会社が潰るるぞ。水俣は黄昏の闇ぞ、水俣病患者どころか
 仕事も手につかない心で市民たちは角々や辻々や、テレビの前で論議しあっている。水俣病患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言い回しが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。なんとそれは市民たちにとって、この上ない思いつきであったことだろう。それこそがこの地域社会のクチコミというものだった。マスコミの関心の集中度とそれはくっきり反比例していた。水俣病に関する限り、どのような高度な論理も識者の意見も、この地域社会にはいりこむ余地はない。マスコミなどはよそもの中のよそものである。

4 thoughts on “石牟礼道子

  1. shinichi Post author

    Egashira日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。


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  2. shinichi Post author

    野口遵

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/野口遵

    野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 – 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。

    朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州、海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。

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    日窒コンツェルン

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/日窒コンツェルン

    日窒コンツェルン(にっちつコンツェルン)は、野口遵によって設立された、日本窒素肥料(日窒・現在のチッソ:事業会社としてはJNC)を中心とする財閥である。15大財閥の1つ。

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  3. shinichi Post author

    苦海浄土

    石牟礼道子

    (p.10)

    第一章 椿の海
    山中九平少年

    湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。

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    第一章 椿の海
    死旗

    (p.63)

     ――海ばたにおるもんが、漁師が、おかしゅうしてめしのなんの食わるるか。わが獲ったぞんぶんの魚で一日三合の焼酎を毎日のむ。人間栄華はいろいろあるが、漁師の栄華は、こるがほかにあるめえが・・・・・・。

    (p.67)

     なんばいうか。水俣病のなんの。そげんした病気は先祖代々きいたこともなか。俺が体は、今どきの軍隊のごつ、ゴミもクズもと兵隊とるときとちごうた頃に、えらばれていくさに行って、善功労賞もろうてきた体ぞ。医者のどんのなんの見苦しゅうしてかからるるか。

    (p.68)

     水俣病、水俣病ち、世話やくな。こん年になって、医者どんにみせたことのなか体が、今々はやりの、聞いたこともなか見苦しか病気になってたまるかい。水俣病とは、栄養のたらんもんがかかる病気ちゅうじゃなかか。おるがごつ、海のぶえんの魚ば、朝に晩に食うて栄華しよるもんが、なにが水俣病か・・・・・・。

    (p.74-75)

     水俣病の死者たちの大部分が、紀元二世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記憶しているならば、僻村といえども、われわれの風土やそこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかも知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死靈や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。

    (p.76)

     ――水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんで俺がかかるか。
     彼はいつもそういっていたのだった。彼にとって水俣病などというものはありうべからざることであり、実際それはありうべからざることであり、見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が負わねばならぬ道義を、そちらの側が棄て去ってかえりみない道義を、そのことによって死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。

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    第二章 不知火海沿岸漁民
    舟の墓場

    (p.93)

    32年4月組織された熊本大学医学を部を中心とする文部省科学研究所水俣病総合研究班が、34年7月、中間発表として、本病の原因と考えられるのは「水俣湾でとれる魚介類にふくまれるある種の有機水銀が有力である」と発表、浄化装置なしに、種々の有毒物質をふくむ汚水を流出する、新日窒水俣肥料工場による湾内の汚染を指摘したが、このことは必至的に、不知火海全域の、漁民生活の逼迫を招いたのである。

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    第二章 不知火海沿岸漁民
    昭和三十四年十一月二日

    (p.112)

     水俣とはいかなる所か。
     九州、熊本県最南端。不知火海をへだてて天草、島原をのぞみ、明治世代にいわせれば、東京、博多、熊本などと下ってくる中央文化のお下がりよりも、直結的に島原長崎を通じ、古えより支那大陸南方および南蛮文化の影響を受けた土地柄であるという。
     鹿児島県に隣接し、天気予報をきくには、鹿児島地方、熊本地方、人吉地方をきいて折衷せねばならない。薩摩入国が厳酷であること鳴りひびいていた幕藩体制の頃も、薩摩藩境の農商民たちは、ひそかに間道を共有し、かなり自由に出入し、商いを交わし婚姻を結び、信教の自由をとり交した形跡がある。

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    第三章 ゆき女きき書
    五月

    (p.162)

    熊本医学会雑誌(第三十一巻補冊第一、昭和三十二年一月)

    猫における観察
    本症ノ発生ト同時ニ水俣地方ノ猫ニモ、コレニ似タ症状ヲオコスモノガアルコトガ住民ノ間ニ気ヅカレテイタガ本年ニハイッテ激増シ現在デハ同地方ニホトンド猫ノ姿ヲ見ナイトイウコトデアル。住民ノ言ニヨレバ、踊リヲ踊ッタリ走リマワッタリシテ、ツイニハ海ニトビコンデシマウトイウ、ハナハダ興味深イ症状ヲ呈スルノデアル。

     全身痙攣ハ約三十秒ナイシ一分ツヅキ、ツイデ猫ハ起キアガリ、付近ヲ走リマワル。

    (p.167)

     海の水も流れよる。ふじ壺じゃの、いそぎんちゃくじゃの、海松じゃの、水のそろそろと流れゆく先ざきに、いっぱい花をつけてゆれよるるよ。
     わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。
     ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。
     海の底の景色も陸の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には竜宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。

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    第三章 ゆき女きき書
    もう一ぺん人間に

    (p.190-191)

     いかなる死といえども、ものいわぬ死者、あるいはその死体はすでに没個性的な資料である、とわたくしは想おうとしていた。死の瞬間から死者はオブジェに、自然に土にかえるために、急速な営みをはじめているはずであった。病理学的解剖は、さらに死者にとって、その死が意志的に行なうひときわ苛烈な解体である。その解体に立ち合うことは、わたくしにとって水俣病の死者たちとの対話を試みるための儀式であり、死者たちの通路に一歩たちいることにほかならないのである。

    **

    第四章 天の魚
    海石

    (p.217-p.218)

     あねさん、わしゃ酔いくろうてしまいやしたばい。ひさしぶりに焼酎の甘うござした。よか気持ちになった。わしゃお上から生活保護ばいただきますばって、わしゃまだ気張って沖に出てゆくとですけん、わが働いた銭で買うとでござすけん。わしゃ大威張りで焼酎呑むとでござす。こるがあるために生きとる世の中でござす。
     なあ、あねえさん。
    水俣病は、びんぼ漁師がなる。つまりはその日の米も食いきらん、栄養失調の者どもがなると、世間でいうて、わしゃほんに肩身の狭うござす。
    あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。
    これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。

    **

    第六章 とんとん村
    わが故郷と「会社」の歴史

    (p.297-298)

     昭和十年十一月、三菱が朝鮮総督府の権限下にあった長津江の水利権を放棄するやいなや、これを獲得した野口遵が、長津江水田株式会社の営業開始をするに当たり、その水利権をあたえた朝鮮総督陸軍大将宇垣一成は、これを祝して京城の総督室から京城放送を通し、祝辞をのべる。
     朝鮮咸鏡南道咸興郡雲田面湖南里、という海辺の部落が消失したことはたしかである。数々の湖南里の里が朝鮮でうしなわれ、そこにいた人びとの民族的呪詛が死に替わり死に替わりして生きつづけていることをわたくしは数多く知っている。この国の炭鉱や、強制収容所やヒロシマやナガサキなどで。この列島の骨の、結節点の病いの中に。そのような病いはまた、生まれてくるわたくしの年月の中にある。
    自分の海辺にいて、わたくしはただ、指を折って数えているのだ。ひとり、ふたり、さんにん、よにん、四人死んだ五人死んだ六人死んだ、四十二人死んだと。

    **

    あとがき

    (p.359-p.360)

     ――意識の故郷であれ、実在の故郷であれ、今日この国の棄民政策の刻印を受けて潜在スクラップ化している部分を持たない都市、農漁村があるであろうか。このような意識のネガを風土の水に漬けながら、心情の出郷を遂げざるを得なかった者たちにとって、故郷とは、もはやあの出奔した切ない未来である。
     地方に出てゆく者と、居ながらにして出郷を遂げざるを得ないものとの等距離に身を置きあうことができれば、わたくしたちは故郷を再び媒体にして、民衆の心情とともに、おぼろげな抽象世界である未来を、共有できそうにおもう。その密度の中に彼らの唄があり、私たちの詩(ポエム)もあろうというものだ。そこで私たちの作業を記録主義とよぶことにする・・・・・・と私は現代の記録を出すについて書いている。未完のこの書の経緯を、いくばくかはそれで伝えているようにおもう。

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