五木寛之

「安全だ」
「いや、安全ではない」
 と、百家百説の論をくりひろげている原子力、放射能の問題ひとつをとってみても、客観的なエビデンスなど現実にはありえないことがよくわかるではないか。
 科学的な根拠も、明確な数字もあることだろう。統計も大きな働きをはたす。
 しかし、それを扱うのは人間である。人間ほど当てにならないものはない。
 三・一一以後、私たち日本国民は、科学者や専門家の言う事を、常に眉にツバをつけて聞くようになった。昨年の大津波のもたらしたものは、単に物理的なダメジだけではないのである。
 メディアに対してもそうだ。政治家に対してもそうだ。そして最大の問題は、専門家、科学者に対する圧倒的な不信感が津波のように人びとの心をおそったことである。
「政府が逃げなくてもいいと言ったら逃げろ。逃げろと言ったら逃げるな」
 そんなふうに子供たちに教えている親もいるという。
 エビデンスが必ずしも客観的真実ではなく、それを用いるのが人間だという、あたり前のことを考えれば今、私たちが身の周りにあふれる情報をどう選ぶかが見えてくる。
 非科学的と笑われようがどうしようが、自分自身の直感に素直にしたがう。
 体の奥から伝わってくる声なき声を聞く。
「そんなことを言ってて、もしそれがまちがっていたらどうする? 」
 と、ある人がたずねた。
 そのとき私が思いだしたのは、親鸞が関東の門徒にむかって言ったこんな言葉だった。
「私は法然上人の言葉を信じる。もし、法然師が大嘘つきで、その言葉を信じたことで地獄に落ちたとしても、私は決して後悔などしない」
 情報を選ぶというのは、賭けることだ。一つの情報を全存在をかけて選んだ以上、その結果は運を天にまかせるしかない。私はそう思う。

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