Erich Kästner

Die Ereignisse von 1933 bis 1945 hätten spätestens 1928 bekämpft werden müssen. Später war es zu spät. Man darf nicht warten, bis der Freiheitskampf Landesverrat genannt wird. Man darf nicht warten, bis aus dem Schneeball eine Lawine geworden ist. Man muss den rollenden Schneeball zertreten. Die Lawine hält keiner mehr auf. Sie ruht erst, wenn sie alles unter sich begraben hat.
Das ist die Lehre, das ist das Fazit dessen, was uns 1933 widerfuhr. Das ist der Schluss, den wir aus unseren Erfahrungen ziehen müssen, und es ist der Schluss meiner Rede. Drohende Diktaturen lassen sich nur bekämpfen, ehe sie die Macht übernommen haben.

3 thoughts on “Erich Kästner

  1. shinichi Post author

    The events from 1933 to 1945 should have been battled in 1928 at the latest. Later was already too late. One must not wait until liberty is called treason. One must not wait till the snowball has become an avalanche. One must squelch the rolling snowball. The avalanche can’t be stopped anymore. It only rests when it has buried everything under it.
    That is the lesson, that is the conclusion of what happened to us in 1933. That is the conclusion we have to draw from our experience and it is the end of my speech. The threat of dictatorships can only be combated before they take power.

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    1933年から1945年までの出来事は遅くとも1928年までに闘わなければならなかった。 遅すぎた。 自由のための戦いが反逆罪と呼ばれるまで待つべきではない。 雪玉が雪崩になるのを待つことはできない。 転がる雪だるまをつぶす必要がある。 雪崩はもう止まらない。 それがすべてをその下に埋めたときのみ、休んでいい。
    それが教訓であり、それが1933年に私たちに起こったことの結論だ。 それが私たちが経験から引き出さなければならない結論であり、それは私のスピーチの終わりなのだ。 独裁政権の脅威は、権力を握る前にのみ闘うことができる。

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  2. shinichi Post author

    1928年、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP;ナチ党)として初の国政選挙。投票率は75.60%だった。ナチ党は 810,127票(2.63%)を得票し、491議席中、12議席を獲得した。

    1933年1月30日、ヴァイマル共和政のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により、ヒトラーはドイツ国首相に任命された。まもなく大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止した上に、対立政党の禁止や長いナイフの夜による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹殺し、ヒトラーを中心とする独裁体制を強固にした。一方で、政府は組織的かつ協力的な組織ではなく、ヒトラーの情実及び権力を求めて闘争を行う党派の集合体であった。1934年8月2日のヒンデンブルク死後、ヒトラーは首相府及び大統領府並びに両権限を統合した上に個人として国家元首の権能を吸収し、名実ともにドイツの独裁者になった。国家元首となったヒトラーの地位は日本語で総統と呼ばれる。世界恐慌の影響でドイツ経済はどん底となり、大量の失業者があふれていたが、多額の軍事支出を始めとする公共投資により、重工業を中心とする産業が伸長し、1935年にはほぼ完全雇用を達成した。

    人種主義、特に反ユダヤ主義は、同政権の中心的特徴であった。ゲルマン人 (北方人種) は、最も純粋なアーリア人種ひいては支配人種(英語版)だと考えられた。自由主義者、社会主義者、共産主義者は、殺害、投獄又は国外追放された。キリスト教会もまた多くの指導者が投獄され、抑圧された。教育は人種主義見地により、人口政策、健康に重点が置かれた。女性の就業及び教育機会は奪われた。娯楽及び旅行は歓喜力行団のプログラムにより組織化された。宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは世論操作のため、映画、大規模集会、ヒトラーの洗脳演説を有効活用した。政府は芸術的表現を統制し、特定の芸術形式を奨励し、それ以外は頽廃芸術として禁止又は抑圧した。1936年夏季オリンピックにより国際舞台で、ドイツがナチ党の唱える理想国家である「第三帝国」であるとアピールされた。

    ナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を行うと脅迫した。1938年及び1939年には、オーストリア及びチェコスロバキアを占拠した。ヒトラーはヨシフ・スターリンと条約を結び、1939年9月にポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発した。イタリア王国及び東欧諸国と同盟を結び(枢軸国)、1940年までにドイツはヨーロッパの大部分を制圧し(ドイツによるヨーロッパ占領)、イギリスを脅かした。1941年のソビエト連邦へのドイツの侵攻開始後、ドイツとソ連は壮絶な独ソ戦の死闘を繰り広げた。東部占領地域は残忍な勢力下に置かれ、ヒトラーの統治に対する反対勢力は情け容赦なく抑圧された。この戦いの最中、ナチス・ドイツ政権の人種政策は、何百万ものユダヤ人及び好ましくないと見なされた生きるに値しない命を強制収容所及び絶滅収容所へ投獄、殺害したホロコーストにおいて頂点に達した。1943年にドイツは大規模な軍事的敗北を被った。1944年にはドイツへの大規模な爆撃が段階的に増大したことと、連合国軍の反攻によりドイツの勢力圏は縮小の一途をたどった。6月のフランスへの連合国の侵攻後、ドイツは完全に守勢に回り、領土も次第に制圧された。終戦間際でのヒトラーの敗北への拒絶は、ドイツ国土の大規模な破壊と、さらなる犠牲を産むことになった(ネロ指令)。ベルリン攻防戦が行われる最中の1945年4月30日のヒトラーの自殺によってナチス政権は事実上崩壊し、5月9日、ドイツ国防軍による降伏が行われた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。ヒトラーに指名されたカール・デーニッツらのフレンスブルク政府は正当性を否認され、6月5日、 ベルリン宣言によりドイツに中央政府が存在しないことが確認され、ドイツは法的にも占領下に置かれることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。戦勝した連合国は非ナチ化政策を開始、多くのナチス指導者は戦争犯罪でニュルンベルク裁判などの非ナチ化裁判の公判に付された。

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  3. shinichi Post author

    『飛ぶ教室』(Das fliegende Klassenzimmer)は、1933年に発表したエーリッヒ・ケストナーの児童文学小説である。世界30か国語以上に翻訳されている。

    ドイツ国のキルヒベルクにある、ヨハン・ジギスムント高等中学(ギムナジウム)を舞台に、クリスマスシーズンの学校で起こる大小の事件を、寄宿舎に住まう生徒たちが知恵と勇気をもって、解決していく物語である。文は三人称で書かれ、前書きと後書きでは作者のケストナー自身も物語の中の人物かのように登場する。

    作品が書かれた1933年当時、ドイツはナチスの支配下にあり、自由主義の作家は本を書くことを制限されていた。しかし、ケストナーの児童文学作品は人気があり、優れていたことから、児童文学作品のみ書くことを許され、発行に至った。

    ドイツでは1954年・1973年・2003年と映画化されており、日本では2003年のウルリヒ・ネーテン (Ulrich Noethen) 主演のものが、恵比寿ガーデンシネマほか全国で公開された。

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    タイトルの『飛ぶ教室』は、クリスマスに上演する劇として作中に登場する。これはヨナタンが書いた戯曲で、学校が将来どのように運営されるかを描いており、5幕から構成される。演出はヨナタンが兼任し、絵が得意なマルチンが背景画を担当した。稽古は体育館で行い、長期休暇前の最後の日の晩に披露した。

    物語のあらすじは、中学校の教師が生徒たちと飛行機に乗り、ベスビアス火山、ギゼーのピラミッド、北極を回って現地を学習する、というものである。教師と生徒たちはその後、飛行機の故障と操縦の失敗により天国へ行き、出演者と観客が「きよしこの夜」を歌って劇は締めくくられる。

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